昭和二十九年(1954)八月十八日、野田高梧に誘われた小津安二郎は初めて蓼科を訪れる。
この地を気に入った小津は、その時の気持ちを野田の山荘「雲呼荘」にある「蓼科日記」で次のように記している。
「雲低く寝待月出でて遠望模糊、まことに佳境、連日の俗腸を洗ふ」
この時の滞在は三週間程度であったが、仕事の場を茅ケ崎から蓼科へ移したのは、昭和三十一年(1956)になってからである。
以降、小津・野田は夏冬を問わず蓼科で仕事するようになるが、無藝荘の役割としては、「来客招待の場所」としての役割が強かったようだ。
この地では、小津が亡くなる迄七年間六作品が作られた。
無藝荘がもともとあった場所は、現在の地から一キロ程離れた所にあったのだが、平成一五年(2003)小津生誕100年を記念してプール平に茅野市によって移築され、蓼科観光協会によって維持管理されている。
【無藝荘「心の俳句展」再開のお知らせ】
小津安二郎監督は、俳句を作る事も好きで、主に30才代の日記に多く見受けられます。
“青梅も 色づくままに 酒旗の風” 昭和9年作
思いつくままを持ち歩いた小さな手帳に書き記していました。
今年度から撰者に、瀬在 光本(せざい みつもと)さんを迎え、「心の俳句展」を再開します。
【略歴】
1946年10月3日 長野県千曲市生まれ
小諸に疎開していた虚子に父(俳号:萃果)が師事していた関係で、虚子より「光本」と命名戴いた。
【現在】
・ホトトギス同人
・公益社団法人 日本伝統俳句協会 理事
・日本伝統俳句協会 北信越支部長
・「ちくま未来俳句」主宰
【俳句小論文】
・「ある比較文学者(俳人)の虚子句批判の考察」
・「虚子の安心の世界」
・「非にて似たる俳人の考察(一茶と虚子)」
・句集「たまもの」
【私の俳句】
ゆらゆらと妻はたまもの初日哉
どこ歩く仏のもとへ菊の道
風死して魔都上海にただ霧笛
【小津安二郎記念無藝荘俳句展投句募集のご案内】
句 | 当季雑詠(春夏秋冬・新年) |
投句方法 | 無藝荘専用投句用紙又は葉書でも可 一葉に一句 宛先 〒391-0301 茅野市北山蓼科 無藝荘 宛 |
投句選 | 選者 瀬在光本(ホトトギス同人) 特選 一句 秀選 三句 佳作 十句 |
投句締め切りと発表 | 毎年七月末日締切 |
入選句は連板にしたため無藝荘に掲示する。
※投句された方で連板にしたためて欲しい方はご連絡ください。費用2,000円・送料別
俳句用紙は無藝荘にて用意します。皆様の投句をお待ちしております。
※入選句は、信濃毎日新聞・長野日報などの新聞に掲載予定
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